武田泰淳「支那文化に關する手紙」についての感想文

武田泰淳「支那文化に関する手紙」の書影

「支那文化に關する手紙」を読了。

作者の武田泰淳は小説家で、竹内好らと共に「中国文学研究会」を設立し活動したことがあり、中国へ従軍したこともあります。この文章は三つの部分に分けることができます。まずは初めの部分で、日常生活すなわち文化の問題を論じる部分です。次は当時日本人の古典でなく「現在」(執筆当時)の中国の認識不足に対する指摘です。最後は戦火に巻き込まれて灰燼に帰した文化の無力さを嘆く部分です。

正直、文章初めの部分を読むと、違和感を覚えました。この部分では、中国に行った日本の兵士たちは、「大陸の風景を胸に灼きつけて歸つて來ました」と言って、中国を「自分の目に寫してきました」と、作者が言いました。日中戦争の背景で、兵士として中国に行って、如何に中国を「自分で見て歸つてきた」と言っても、征服者の目線で見下ろしたものではないかと思います。

ですが、更に進んで読んで、角度を変えると理に叶っていると思いました。

日中戦争の背景があったといえども、当時中国に行った日本人たちは、少なくとも本当の中国に触れたと言えます。近代までの日本の文化人たちは、支那趣味という飾りのある中国を眺めたりしていたかも知れませんが、「兵士達は東亞協同體論も知りません。其の他大雜誌の卷頭に飾れる、東亞に關する大論文も讀んでゐません。」と作者が書いたように、当時の日本人たちは茫々たる中国の大地とそこに住む中国の人々と直接出会いました。

そして、このような出会いはのんびりした旅ではありません。「外務省や文部省の留學生のやうに題目を與へられ、研究費をもらつて行つたのではありません。[⋯⋯]兵士達にとつては日常の生活が尊い支那硏究でありました。」言い換えれば、研究のテキストは日常生活そのものです。日常生活が大したことではないという考え方もあるかも知れませんが、作者は日常生活の価値を認め、「學者先生の學問でもなく、酒保商人の利益の問題でもなく、生活の問題なのであつて、それは言ひかへれば文化の問題」と述べました。生の中国文化に直接接触する機会としました。

話しは逸れますが、作者に取り上げた「農民達」の「數千年來の被征服者的理性」も、長い歴史に亘り貫いてきた中国の農村社会を読み解くためのキーワードだと思います。作者の鋭かった観察力に感服します。

第二の部分を読むと、作者の他の作品を読み解くヒントになれると思います。作者は当時日本の文化人たちの「現在」の中国のあり方に対する理解の欠如を指摘しました。作者は恐らくそれをなるべく避けるため、当時中国の文化人と往来し、「中国文学研究会」の活動をし、自分なりの中国色豊かな作品を描いたのでしょうか。

第三の部分は、一番感動させた部分だと思います。小さい頃から諷誦してきた古典の木版も、生きた現代文学の本も、もう誰もいない図書館にほこりを拭き取られなく、放っておかれてしまい、さらに燃やされて灰燼に帰してしまいました。生きた人もいなく、その生の声もなく、残されたのは単なる「堆積した文化」です。このような「文化とは何と無力なものであらう」と、作者は嘆きました。悲しかった。

そして、名状しがたい悲しさを覚えさせたのは、「安徽省のしゅうの公園で私は文化に對する一つの想念を得ました」ということです。もう誰もいない書斎で、「立派な木版本」を「焚火に」、「五色の花瓶」を「火に入れるに」使ったということです。「朱子全書や宋史や拓本の類が燃え上り灰となる頃美しい五彩の花瓶も熱のために花瓣のやうに割れました。私は陶器の破片と古典の灰とを秋の池の中に沈めました。」なんと寂しかったこと!

ですが、その後、興味深い出来事がありました。酒に酔った作者は枯葉を拾う貧乏な少年を手伝って、「少年は喜んだので私はすこぶる滿足」したということです。そこに作者は既有の「研究」の立場の無力さを覚え、嘆きつつ、生きた人々とその生の声との、生きた文化としての大切さと有意義さを感じたのでしょう。

「武田泰淳年譜」(『武田泰淳研究(全集別巻)』、昭和四十八年〈=1973年〉二月二十五日第一刷、筑摩書房)で確認すると、武田泰淳は「支那文化に關する手紙」を発表した年(471ページ)に、小説・随筆の他、中国現代文学の翻訳に活躍していました。この「手紙」は戦時中書かれたのですが、作者の他の作品を読み解き、その思想に迫るに大切な一編だと思います。

(初出は『中國文學』月報第五十八號、昭和十四年〈=1939年〉十二月廿五日印刷納本、昭和十五年〈=1940年〉一月一日發行。本稿は初出本を参照。また、引用文の省略〈[⋯⋯]〉は筆者による。)

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