間宮茂輔「新興藝術派を嘲笑する」について~新興芸術派・プロレタリア文学論争のまとめ~

まとめの構成

右に示す通り、『現代日本文学論争史』「新興芸術派・プロレタリア文学論争」(本稿でのページ数についての記載はこの本に準ずる)の章に収録される文章をまとめる。

それぞれのまとめの後ろに、文章の作者を簡単に紹介する。

また、重要な専有名詞がある場合には、「註:」の形でその後ろに注釈を加え、質問点がある場合、「問題提起:」の形で後ろにこれをする。

文献情報

間宮 茂輔(プロレタリア文学)「新興藝術派を嘲笑する」(一〇九〜一一二頁、初出:昭和五年=一九三〇年四月 三田文學)

註:『三田文學』誌について。

文芸雑誌。一九一〇年(明治四三)慶応義塾大学は不振の文科刷新のため、永井荷風かふうを教授に迎え、その五月、森鴎外、上田うえだびんを顧問に、荷風を主幹として『三田文学』を創刊した。荷風主幹時代は一五年(大正四)までであるが、この間、鴎外(『花子』『沈黙の塔』『妄想』)、敏、荷風(『紅茶の後』『新橋しんきょう夜話』『日和下駄ひよりげた』)のほか、馬場孤蝶こちょう、泉鏡花(『三味線堀』)、木下杢太郎もくたろう、北原白秋はくしゅう、吉井勇、小山内薫おさないかおる、谷崎潤一郎、与謝野鉄幹よさのてっかん晶子あきこらが寄稿。耽美たんび的色彩の濃厚な反自然主義的傾向を示し、久保田万太郎、水上滝太郎みなかみたきたろうらの三田派の作家も誕生した。ついで沢木こずえが主幹となり、南部修太郎、小島政二郎、西脇順三郎、勝本清一郎らを送り出したが、二五年三月終刊。翌年四月大学の直接経営を離れ、水上を精神的主幹として復刊。杉山平助、石坂洋次郎(『若い人』)、矢崎だん、原民喜たみき、北原武夫、柴田錬三郎、丸岡明らが引き続いて登場した。四四年(昭和一九)一一月休刊。第二次世界大戦後は四六年(昭和二一)一月丸岡明を中心として復刊。

『日本大百科全書(ニッポニカ)』より一部抜粋

章立て

1(一〇九頁)

2(一一〇頁〜)

3(一一一頁〜)

4(一一二頁)

各章のまとめ

第一章で作者は新興芸術派を「モダニズム作家の集合で」、「左・プロレタリア派、右・既成文藝派との間に在」るのを「同情的に認める」(一〇九頁)と言った。「新興藝術派」を「商業出版資本主義」の(新潮社に利用して取り上げられた)ものとした。

第二章では、新潮社で新興芸術派とされた岡田三郎・嘉村礒太・川端康成・淺原六朗の四人を批判した。「川端康成氏が、新感覺主義から新興藝術派に移つた行程」(一一〇頁)に非難した。「自然主義系統のリアリズム」を新興芸術派のものとした。岡田三郎を「自然主義的リアリズム⋯⋯と云つても、此の作家のリアリズムは曖昧である」(同上)と批評した。浅原六朗を「誠實の無い作家」(一一一頁)と批判した。嘉村礒太の「ジアナリズムの前に弱々しく降伏した」(同上)ことを非難した。

第三章で、作者は「久豊、楢崎、中村、等々⋯⋯の一群」の作家を「モダニテイを持つて居ると考へられる」(一一一頁)。が、彼らは「數に於て量に於て」(同上)足らないと言った。新興芸術と言われるものを新潮社に利用され、「新潮社の資力——廣告に依つて」売られたものとし、いつか捨てられると論じた。

第四章は、「ブルジョアの城壁 インテリの苦しい立場 プロレタリア層の悲慘」(一一二頁)の「三つの對立的關係」を捉えられなければならないと論じ、「モダニテイに對する理解」(同上)がなければその作品が評価にならないと論じた。

作者について

小説家。東京生まれ。本名は真言まこと。慶応義塾大学文科予科中退後、鉱山こうざん灯台とうだいなどで働き、その体験が後の作品に生かされる。『不同調』に参加するが、変貌へんぼうする漁村を描いた『朽ちゆく望楼』(一九二九)を発表し、プロレタリア文学運動に近づき、『文芸戦線』を経て、ナップに加わる。入獄を経験したのち、『人民文庫』に参加し、『あらがね』(一九三七~三八)を連載。戦後は民主主義文学運動や平和運動の推進に力を尽くした。[鳥居明久]

『日本大百科全書(ニッポニカ)』より

一八九九-一九七五 大正-昭和時代の小説家。

明治三二年二月二〇日生まれ。「不同調」の同人をへて、「文芸戦線」、ナップにくわわる。昭和八年投獄され、一〇年転向して出獄。一二年から「人民文庫」に長編「あらがね」を連載。戦後は新日本文学会、日本民主主義文学同盟に所属。昭和五〇年一月一二日死去。七五歳。東京出身。慶応義塾中退。本名は真言まこと

『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』より

註:転向てんこうについて。

政治的、思想的立場を変えること。特に、共産主義者・社会主義者が、弾圧によってその思想を放棄すること。

小学館『デジタル大辞泉』より

註:転向文学について。

共産主義・社会主義にっていた作家が、権力の介入によってその信条を放棄したり、あるいは圧迫のない立場に移行したりする、いわゆる転向を主題に据えた文学。また広くそういう体験をもった作家によって書かれた作品も転向文学といわれることがある。 一九三三年(昭和八)六月、当時の共産党指導者佐野まなぶ鍋山貞親なべやまさだちか(一九〇一―七九)が獄中から「共同被告同志に告ぐる書」いわゆる転向声明を公表、実質的に共産主義放棄を宣したのを契機に、未決囚・既決囚を含む治安維持法被告の大多数はこれに追随して転向の意思を表明し、三四年春ごろから相次いで保釈出獄の身となった。この転向体験をもった作家によって書かれた文学、また直接転向体験そのものを題材とした作品は当時のジャーナリズムにも積極的に迎えられて、いわゆる文芸復興なるものと表裏の関係で昭和一〇年前後の文運をにぎわしたのである。それらのうち三四年に発表された村山知義ともよし白夜びゃくや』、立野信之たてののぶゆき『友情』、窪川鶴次郎くぼかわつるじろう『風雲』、徳永すなお『冬枯れ』などは、官憲の抑圧によって余儀なくされた転向を良心の苦悩としてわたくし小説風に告白した作品であり、その年から翌年以降にわたって発表された島木健作の『らい』から『再建』に至る作品(島木は後に『生活の探求』で転向を完成させる)、中野重治しげはるの『第一章』に始まって『村の家』ほかを含む連作などは、一歩後退したところからもなお再起への模索を潜ませた作品であって、ともに初期の転向文学の位相を端的に示すものであった。また、三五~三六年(昭和一〇~一一)に発表された高見順の『故旧忘れ得べき』などに代表される昭和一〇年代のデカダンス文学も転向文学の一位相とみることができ、そのほか、武田麟太郎りんたろうにおける庶民的日常性への埋没、本庄陸男ほんじょうむつおにおける歴史的次元への遡及そきゅう、亀井勝一郎における宗教や古典の世界への自己再生等々の場合、さらに戦争下ファシズムに傾斜した転向作家の場合などをも考え合わせると、強制された転向から、質を転じた自主的転向に至るまでの諸段階を反映した転向文学の諸相は、昭和10年代文学状況の全般にわたって深くかかわっていたということができる。第二次世界大戦後は、「近代文学」同人たちによる戦争責任の追及の過程で転向問題が再提起された。[高橋春雄]

『日本大百科全書(ニッポニカ)』より

付記

日本語の資料を引用する時、舊字體の字をそのままにする。下線や読み仮名(よみがな)・[……](省略)は筆者による。

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