雅川滉「藝術派宣言」について~新興芸術派・プロレタリア文学論争のまとめ~

まとめの構成

右に示す通り、『現代日本文学論争史』「新興芸術派・プロレタリア文学論争」(本稿でのページ数についての記載はこの本に準ずる)の章に収録される文章をまとめる。

それぞれのまとめの後ろに、文章の作者を簡単に紹介する。

また、重要な専有名詞がある場合には、「註:」の形でその後ろに注釈を加え、質問点がある場合、「問題提起:」の形で後ろにこれをする。

文献情報

雅川 滉(新興芸術派)「藝術派宣言——新藝術派は如何にして起り、何を爲すかの問題——」(一〇一〜一〇九頁、初出:昭和五年=一九三〇年四月 新潮)

註:『新潮』誌について。

月刊文芸雑誌。一九〇四年(明治三七)五月創刊。新潮社発行。[……]昭和に入ると、プロレタリア文学盛行のころには新感覚派、新興芸術派に誌面を割くことも多かったが、編集を担当した楢崎勤(ならさきつとむ)(一九〇一―七八)の「文壇の公器」という信念のもとに、党派に偏らず、川端康成(やすなり)・横光利一(よこみつりいち)・嘉村礒多(かむらいそた)・小林秀雄・堀辰雄(たつお)・宮嶋資夫(みやじますけお)・太宰治・高見順らの作品を載せている。太平洋戦争末期の一九四五年三月休刊、終戦後の同年一一月斎藤十一(じゅういち)(一九一四―二〇〇〇)編集長、河盛好蔵(かわもりよしぞう)編集顧問で復刊。

『日本大百科全書(ニッポニカ)』より一部抜粋

章立て

一 先づ何故に宣言が發せられるに就いて(一〇一頁)

二 さて第一にマルクス主義文學論の誤謬から(一〇一頁〜)

  A それは藝術の角度からでない

  B 現實の切實と反映の切實とは違ふ(一〇二頁〜)

  C 藝術的價値の可變性を、マルクス主義は陋劣にも強權主義によつて歪曲した

(一〇三頁〜)

三 第二にマルクス主義作品に對する不滿について(一〇四頁〜)

  A しかし今日までの功績を認めるのに我々は吝(やぶさ)かでない

  B だがマルクス主義の作品は固定しだした、こゝに不滿が起る(一〇五頁)

四 そこで新藝術派は宣言する(一〇五頁〜)

  A 「藝術に對する正しき認識」——新藝術の理論

  B それの進歩への抗爭——新藝術派の作品に關する檢討(一〇七頁〜)

五 新藝術派の實際(一〇九頁)

文章の主旨

この文章は作者によって、「藝術派の向動性を、虐殺されんとする藝術の爲に、闡明(せんめい)するもの」(第一章、一〇一頁)である。

問題提起:向動性とは?

原文には、「マルクス、エンゲルスが、虐(しいた)げられた萬國の勞働者の爲に、「共產黨宣言」を發表したその激しい意欲とお等(ひと)しく、藝術派は藝術に對する正しき認識と、それが進歩への抗爭の爲に、彼等の行動を開始したのである。「藝術派宣言」とはまさしくこの間の藝術派の向動性を、虐殺されんとする藝術の爲に、闡明するものであらねばならない。」(一〇一頁)と書いてある。

もしかして能動性のこと。この文章には、作者がマルクス主義的言葉遣いを了解した上で使ってプロレタリア文学者とも対話しようとする姿勢が見られるので、ここの向動性も能動性のことだろうかと思われる。

また、原文には「敏感なる識眼が何に向かつて動いてゐるかゞ十分問題になるだ」(一〇三頁)と書いてあり、向動性はもしかして何に向かって動き出す傾向性を意味する造語だろうかとも思われる。

各章のまとめ

第一章のまとめ

第一章は、文章の趣旨を明らかにする

「文學が藝術である限り藝術派といふ名前は少し變である」(一〇一頁)一方、このような認識を持っている人々が少なくなっ言う表現が「何か新鮮な響き出してきたのだ」(同上)と述べた。芸術は「自慰的な享樂」「逃避的な遊戲」(一〇一頁)とされてきたといった。

そして、マルクス主義者の観点では、「文學とは、他の文化現象と同じく經濟機構の上部構造である限り、直接に社會の反映でなければならない」(一〇一頁)という。「階級闘爭の進行は、唯物辨證法の指示する所に従つて、ブルジョアーの没落とプロレタリアートの勝利を豫言する」(同上)といったように、文学も同じだとされた。よって、「在來の藝術」(同上)は反動なものとされた。

そのような認識に対する「抗爭」(同上)として、芸術派は「行動を開始したのである。」(同上)

第二章のまとめ

第二章は、「マルクス主義文學論」(題名より、一〇一頁)を反駁(はんばく)した。「藝術の角度からでない」(同上)、「現實の切實と反映の切實とは違ふ」(一〇二頁)、「藝術的價値の可變性を、マルクス主義は[⋯⋯]歪曲した」(一〇三頁)と、三つの方面から批判した。

まずは芸術の角度からの批判である。作者は直接マルクス主義理論を批判せずに、マルクス主義文学論を「社會學的解釋」(一〇二頁)とし、「階級闘爭説に結合」(同上)したものとした。しかし、「我々」のある作品を楽しむのは、その作者の政治的見解や革命の経歴と関係なく、「藝術作品の卓越の上からだ」(同上)と論じた。それは芸術の角度である。マルクス主義文学者は「自身に忠實なる所以で」(同上)、「闘爭的文學の歴史的必然性」(同上)から文学を論じるが、「藝術に對する忠實或は藝術の必然性はまた別の角度からである」(同上)と作者は論じた。

続いては「現實の切實と反映の切實と」(題名より、一〇二頁)の違いから論を始めた。「時代に對する敏感であることは藝術の第一義的要件である」(一〇二頁)ので、芸術派が「階級闘爭の嵐」を無視するわけではないと主張し、マルクス主義文学が「社會の反映だといふことを旣に我々の心臓にかけて承認してゐるのだ」(同上)と述べた。それを前提とし、「實を云へばこの敏感なる識眼が何かに向かつて働いてゐるか」(一〇三頁)と定義し、作者は文学作品の切実さを「現實の切實」と「反映の切實」と二つに分けて、「現實の切實感」を「一般社會人の敏感」とし、「反映の切實」を「藝術家の敏感」、「藝術家の眺める對象乃至角度」とした。「反映の切實を、現實の切實に切り換へ」ると、「社會の勝利である。然し文學の没落だ。」(同上)と断言し、「文學作品は、必ずしも現實にその内容を充當する蓄電池である必要はない」と言った。

最後は「讀者の方向から所謂藝術的價値について」(一〇三頁)である。題目には「藝術的價値の可變性」という表現があるが、「價値の可變性」は、マルクス主義理論とされ、「藝術品に對する藝術的價値が永久不變のものでなく、常に可變性を帯びてゐるといふこと」と述べた。作者はそれについて「事實」と言い、『万葉集』を例とし、「必ずしも萬葉時代人が感じ得た波長と等(ひと)しいとは考へられない」(同上)と論じた。が、芸術的価値及びその可変性は、判断基準が政治的覇権を受けていると指摘した。マルキス主義の視点から見れば、いわゆる価値は「プロレタリア解放に關する政治的價値」(一〇四頁)である。このような価値観で芸術作品の価値を評定するのは、「政治主義の勝利」であり、「藝術は虐殺される」(同上)と言った。

問題提起:「承認」(一〇二頁)とは?

原文で「我々はかの「卓見」文學が社會の反映だといふことを旣に我々の心臓にかけて承認してゐるのだ。」と書いてある。ここの「承認」は、納得と違うのだろうかと思われる。

『精選版 日本国語大辞典』「承認」の解説には、「正当であると認めること。一定の事実を認めること。肯定の意思を表示すること。」と書いてある。

また、間宮「新興藝術派を嘲笑する」にも「承認」という表現が出た。が、条件付きの承認である。前述の新興芸術派の定義に対し、「[⋯⋯]ならば、一應承認することは出來る。一應承認とは、是認することでは無く同情的に認める事である事勿論である。」(一〇九頁)と書いてある。雅川はマルクス主義理論を賛成するわけでもないので、用いた「承認」も「一應承認」で、「同情的に認める事」だろうかと思われる。

第三章のまとめ

したがって第三章では、「「それが進歩への抗爭」に對蹠する[……]マルクス主義文學作品に感ずる不滿」(一〇四頁)を述べた。

その前に、マルクス主義文学の「功績」(一〇四頁)を評価した。新興芸術派の「鋭く對蹠」する「舊き藝術派」は「個人主義的傾向によつて」、その作品が安易な「身邉雜記」に「固定」し、「心境小説論」と名乗り、「ともすれば藝術至上の信仰が藝術至上の迷信に置換へられてゐた」ので「許された」(一〇五頁)と言った。そして、「マルクス主義の作品が素材的な意味での開拓でしかなく」、「少くも新しい空氣を輸送し」、「一撃によつて舊藝術派の唯心主義や感傷主義がひとたまりもなく抛り出された」(同上)と論じた。

が、マルクス主義の作品は「固定」(一〇四頁)した旧芸術派の作品に衝撃を与えて後、その自身もまた「固定」(一〇五頁)した。「現實の切實を、反映の切實と切換へた限りでは、政治主義を藝術主義と置換へた限りでは、その文學は停頓する」と作者は主張した。その原因として、「一個の政治上の主義は、完徹に向かつて[⋯⋯]常に勇往邁進する不變の志操であるのに反して、文學はまた常に、新しき角度に向つて移動し進展し行く可變の觸手であるからなのだ。」(同上)「幾度か同じ趣意を繰返すべき」政談演説の例を挙げ、「二個の同一の作品を創造すべきでないことは、藝術の藝術たる特質なのだ」(同上)と論じた。

第四章のまとめ

第四章は本論になる。作者は新芸術の理論を「藝術に對する正しき認識」(一〇五頁)とした。

「知識階級は其自體階級ではないと云はれるかも知れない。如何にもその通り。さう云ふ意味に於いて藝術に階級を認めないのが我々の理論なのである。」(一〇六頁)向坂逸郎の「藝術は餘剩價値の上に築き上げられた」という意見に反対し、「藝術の價値の高さに、彼の知識の深さは比例してゐる」と主張した。また、知識階級という概念に巡って、「社會の歴史は[⋯⋯]帝王、貴族、僧侶、ブルジョアジーと次第に知識階級を増加しつゝ、今やプロレタリアートをしても、この知識階級への参加を促進せしめようとしてゐるのである。」(同上)

「藝術派の作品」(一〇七頁)に対しての非難を答えた。

「藝術派の作品は自己陶醉乃至逃避であると」(同上)いう「マルクス主義者諸君の指摘でしかない」(同上)批判に対して、「停滞した角度にのみ固着して飽かれることに平氣で」、「乃至文學の世界から一般社會人へと逃避した」ということこそ自己陶酔・逃避というものである。マルクス主義評論家につけられた「反動といふ名札」(同上)を反対し、芸術を「進歩へ」(同上)向っているものとし、「我々の進歩は、藝術に結付く限りでは、直接社會の進歩的な傾向に參與しないからである」と論じた。

また、「進歩」「反動」という言い方を否定した。「藝術派の思想は必ずしもマルクス主義的ではない」(一〇八頁)ので、マルクス主義者に「反動」と言われたと反発した。また、マルクス主義者にとって「進歩」なものは、「他の社會主義の立場から見るときは、進歩の文字は過激と置換られるかも知れない」(同上)と言った。龍胆寺雄の言った「藝術派の藝術主張は、何よりも藝術を狹小な政治的干渉から解放しようとして發現した。從つてプロレタリア的政治方策の干渉をも拒否する様に、ブルジョア政治方策の干涉をも拒否する」(近代生活三月號一四頁)を引用し強調した。

「藝術派は技巧偏重主義だと」いう非難に対し、作者は「現實の切實を計算に入れ」ず、マルクス主義の価値観に支配させられず、「所謂政治的價値を殆ど含むことのない、反映の切實に直面する」(同上)からだとした。

「藝術派」が「無内容」「無解決」とも呼ばれるが、作者は、「無内容」を「技巧偏重の意」を含めるものとして、また「無解決」に対して、「新しき角度による新しき美を發見」(同上)することを芸術家の任務とし、他の専門の任務である「解決」を芸術家に強要してはいけないと論じた。

「最後に狹いといふ非難」に対して反論した。「マルクス主義文學の廣さ」(一〇九頁)を「地域と社會運動」(同上)などのものと言い、「文學の廣さではなくて文學素材の廣さだ」と論じた。「藝術内の廣さとは、種々の個性を發揮した作品が、自由な氾濫を見せてゐるといふことだ」(同上)と定義した。

第五章のまとめ

第五章では、「文學を政治から防備することは、必然的に我我の使命であることを。」(一〇九頁)と述べた。

作者について

⇒成瀬 正勝(なるせ まさかつ)

一九〇六-一九七三 昭和時代の評論家、近代文学研究者。 明治三九年二月二五日生まれ。第九・第十次「新思潮」、「文芸都市」などの同人。昭和五年新興芸術派倶楽部に参加、「芸術派宣言」を発表した。日大、東洋大、東大、成蹊大の教授をつとめた。昭和四八年一一月一七日死去。六七歳。東京出身。東京帝大卒。筆名は雅川滉。著作に「明治文学管見」「森鴎外覚書」。

『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』より

付記

日本語の資料を引用する時、舊字體の字をそのままにする。下線や読み仮名(よみがな)・[……](省略)は筆者による。

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