雅川滉「藝術派への攻撃に逆襲する」について~新興芸術派・プロレタリア文学論争のまとめ~

まとめの構成

右に示す通り、『現代日本文学論争史』「新興芸術派・プロレタリア文学論争」(本稿でのページ数についての記載はこの本に準ずる)の章に収録される文章をまとめる。

それぞれのまとめの後ろに、文章の作者を簡単に紹介する。

また、重要な専有名詞がある場合には、「註:」の形でその後ろに注釈を加え、質問点がある場合、「問題提起:」の形で後ろにこれをする。

文献情報

雅川 滉(新興芸術派)「藝術派への攻撃に逆襲する」(一二二〜一二八頁、初出:昭和五年=一九三〇年六月 新潮)

章立て

  1. その攻撃について(一二二頁)
  2. 藝術上の真實(一二二頁〜)
  3. 新しい角度(一二六頁〜)
  4. 後言として(一二八頁)

各章のまとめ

第一章のまとめ

第一章では新芸術が受けた「攻撃」(一二二頁)を軍事的な修辞で描写した。

第二章のまとめ

第二章は「藝術上の真實」の題で、マルクス主義文学者からの批判を反駁した。

まずは日本における「感傷主義」(一二二頁)の形成に至る歴史的背景を顧みた。

そして、マルクス主義は果たして感傷主義の対蹠・「理智主義」「科學主義」(一二三頁)を代表したのかと質疑した。

マルクス主義の強かった影響力を承認しつつ、「この社會運動に對する熱愛は、いつか藝術をもこの手段へと採用するに至つた。所謂藝術の政治的隸屬である。」(一二三頁)と言った。

マルクス主義の文学における反抗を、「社會運動の持つ壓迫階級への反抗といふ意味」(一二三頁)に帰結し、政治からの芸術の独立の意味で「文學としての反抗ではない」と論じた。

また、主義と関係なく、「藝術作品に敬服を惜しまないといふことが我々の最初にして且つ最後の重點である。」(一二四頁)と述べた。

「文學形態が、言語によつて表現せらるゝからで[⋯⋯]この言語は、同時に思想の傳達手段でもある。」(一二四頁)と述べた。しかし、「思想と藝術とは壁一重だ。記録と藝術とも壁一重だ。」と言った。他の芸術形式・絵画や音楽の例を挙げ、「繪畫[⋯⋯]その傳達手段を、色彩の上に」「音樂[⋯⋯]その傳達手段は音の上」と述べた。「藝術は事實の模寫でない。[⋯⋯]それ自體の中で真實である。[⋯⋯]事實上の真實とは別個の存在なのである。前者はたゞ存在する。後者は、藝術なる形態を通じて、そこに初めて存在を全(まっと)うするのだ。」(同上)と述べた。したがって、マルクス主義の文学は「飽くまで社會的狀勢の上であり、且つその記述は思想であり、記録である。」(一二五頁)と論じた。

文学作品における思想の重視は、古代において文化状態の未分化と関連すると論じた。が、作者の時代は、文化状態の「分化の進展期」(一二五頁)である。よって、マルクス主義者からの批判を「藝術に於いて取出された思想ばかりの重視を意味するもの」とした。さらに、マルクス主義者を本まとめの一番目の文章「藝術派宣言」(雅川 滉)で書いた芸術家至上主義とし、「人間的藝術家として自己完成を遂げたとみる藝術家至上主義」(一二六頁)と帰結し、新芸術派の方を自ら「藝術至上主義」(同上)とした。

第三章のまとめ

第三章で、「新しい角度」(題名、一二六頁)の必要性を論証した。「事實上、或は社會上の真實」が何度も繰り返されることができ、「藝術上の真實は」、「同じ」ということを「極力排斥するものだ」(一二六頁)と論じた。また、「藝術上の真實は、その作家の絶えざる創作的過程の中にある」(同上)と主張した。「新しい角度とは、この創作的過程に於ける努力の中に見出される新しい方法への省察である」(一二七頁)ことを明らかにした。

作者について

⇒成瀬 正勝(なるせ まさかつ)

一九〇六-一九七三 昭和時代の評論家、近代文学研究者。 明治三九年二月二五日生まれ。第九・第十次「新思潮」、「文芸都市」などの同人。昭和五年新興芸術派倶楽部に参加、「芸術派宣言」を発表した。日大、東洋大、東大、成蹊大の教授をつとめた。昭和四八年一一月一七日死去。六七歳。東京出身。東京帝大卒。筆名は雅川滉。著作に「明治文学管見」「森鴎外覚書」。

『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』より

付記

日本語の資料を引用する時、舊字體の字をそのままにする。下線や読み仮名(よみがな)・[……](省略)は筆者による。

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