山月 quoted 個人的な体験 by 大江健三郎

鳥、彼は二十七歳と四箇月だ。彼が鳥と言う渾名で呼ばれるようになったのは十五歳のころだった。それ以来彼はずっと鳥だ、いま飾り窓のガラスの暗い墨色をした湖にぎこちない恰好で水死体のように浮んでいる。現在のかれも、なお鳥に似ている。鳥は小柄で、痩せっぽちだ。かれの友人たちは大学を卒業して就職したとたんに肥りはじめ、それでもなお痩せていた連中さえ結婚すると肥ったけれども、鳥ひとりは、幾分腹がふくれてきただけで痩せたままだった。かれはいつも肩をそびやかして前屈みに歩く、立ちどまっている時もおなじ姿勢だった。それは運動家タイプの痩せた老人の感じだ。かれのそびやかした肩は閉じられた翼のようだし、容貌自体、鳥をしのばせる。すべすべして皺ひとつない渋色の鼻梁はクチバシのように張って力強く彎曲しているし、眼球はニカワ色のかたく鈍い光をたたえて、ほとんど感情をあらわすことがない。ただ、時々、驚いたように激しく見ひらかれるだけだ。唇はいつもひきしめられて薄く硬く、頬から顎にかけては鋭くとがっている。そして、赤っぽく炎のように燃えたって空にむかっている髪。 鳥は十五歳のとき、すでにこのままの顔をしていた、な二十歳でもそうだった。かれはいつまで鳥のようであるのだろう? 十五歳から六十歳にいたるまで、おなじ顔、おなじ姿勢で、生きるほかない、そのような種類の人間なのか? そうだとすれば、鳥は今、飾り窓のガラスのなかにかれの全生涯をつうじての彼自身を眺めているのだった。鳥は吐きたくなるほど切実に具体的な嫌悪感に襲われて身震いした。かれはひとつの啓示をうけた気分だった、疲れはてて子沢山の老いぼれ鳥・・・・・・