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ガード文で読み手にやさしいif else文を作る
友達の依イーDângダン師ラーに教えてもらって、ガード文(guard clauses)のことを勉強になりました。 ガード文は、if else文をより理解しやすく読みやすくすることができます。 しかし、if文のネストを深くすると、コードが読みにくく編集が困難になります。 こういう時には、ガード文に置き換えることが選択肢になれます。 ガード文の目的は、条件を検証し、条件が満たされない場合にすぐにコードの実行を停止することです。 以下のコードの例を挙げます。 ガード文を使うと、 のようになります。修正前のコードには、条件が成立する場合に次の操作を実行するif文がありました。修正後のコードでは、このif文が条件の反転されたif文に変更されました。条件が成立しない場合は、continueが実行され、現在のループのイテレーションをスキップして次のイテレーションに入ります。この方法のメリットは、元々if文内で行われる操作がif文の外で行えるようになり、コードのネストレベルが減少することです。 ネストレベルの減少のメリット:
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Pythonコードの不適切なインデントの結果
インデントとは、コード行の先頭の空白のことを指します。Pythonでは、インデントは読みやすさだけでなく、コードブロック階層構造を表すためにも使われます。どのコードがどのコントロール構造(if文、forループなど)に属するかを区別するのに役立ちます。これは読みやすさだけのためにインデントされている他のプログラミング言語とは異なります。 上記のコードで、print(“sanguok”)の前の部分がインデントです。 インデントが正しくない場合、以下の問題が発生する可能性があります。 したがって、正しいインデントを保つことは、Pythonコードの正しい実行と読みやすさにとって重要です。
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小宮山明敏「新藝術派の特質、位置」について~新興芸術派・プロレタリア文学論争のまとめ~
まとめの構成 右に示す通り、『現代日本文学論争史』「新興芸術派・プロレタリア文学論争」(本稿でのページ数についての記載はこの本に準ずる)の章に収録される文章をまとめる。 それぞれのまとめの後ろに、文章の作者を簡単に紹介する。 また、重要な専有名詞がある場合には、「註:」の形でその後ろに注釈を加え、質問点がある場合、「問題提起:」の形で後ろにこれをする。 文献情報 小宮山 明敏(プロレタリア文学)「新藝術派の特質、位置」(一二九頁〜一三四頁、初出:昭和五年=一九三〇年七月 新潮) 章立て 一(一二九頁〜) 二(一三二頁〜) 各章のまとめ 第一章で、ブルジョア文学が「没落」(一二九頁)しつつあると述べ、その原因を関東大震災とした。また、現実主義作家に比べてもブルジョア文学者が「真正面から現實を把握することができない」(同上)と論じた。ブルジョア文学→形式主義文学→新芸術派文学といった(進化の)流れを挙げ、本質が同じものだと述べた。 その特質について説明した。まずは形式・角度・手法の三つ名称が違うが指すことが同じだと作者に考えられるものである。そして、プロレット文学が局限されたものとし、新芸術派にそれがないと述べた。三つ目はプロレット文学のように「強権主義」や「政治主義」(一三一頁)に強要されていないことである。また、形式や多様性などの新芸術派のプロレット文学に比べて優れたことを言及した。 第二章は、新芸術派の作家およびその作品、またこれらを集める雑誌を挙げた。 作者について 昭和期の文芸評論家、ロシア文学者 生年 明治三五(一九〇二)年二月一〇日 没年 昭和六(一九三一)年九月三〇日 出生地 岡山県御津郡金川町草生 学歴〔年〕 早稲田大学露文科〔大正一五年〕卒 経歴 片上伸を慕って早大露文科に進む。在学中から建設者同盟に加入し、社会主義運動に入る。大正一四年尾崎一雄らと「主潮」を創刊、先鋭な文芸評論で認められる。十五年卒業と同時に早稲田高等学院講師となるが、健康を害して昭和四年休職、以来ロシア文学の翻訳・紹介に努める。一方、三年片上伸没後、その遺志をつぎプロレタリア文学運動の理論を展開、多くの文芸評論を発表。五年「文学革命の前哨」を刊行。同年プロレタリア科学研究所に入り、ナルプにも参加した。「現代日本文学史覚え書き」は未完に終った。 『20世紀日本人名事典』より 註:片上伸(かたがみ のぶる)について。 一八八四-一九二八 明治-大正時代のロシア文学者。 明治一七年二月二〇日生まれ。四三年母校早大の教授となる。ロシア留学後、大正九年同大に露文科を設立し、主任教授に就任。自然主義擁護の立場から浪漫主義に転じ、さらに唯物史観によるプロレタリア文学理論の確立をめざした。昭和三年三月五日死去。四五歳。愛媛県出身。号は天弦。著作に「生の要求と文学」「階級芸術の問題」など。 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』より 付記 日本語の資料を引用する時、舊字體の字をそのままにする。下線や読み仮名(よみがな)・[……](省略)は筆者による。
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雅川滉「藝術派への攻撃に逆襲する」について~新興芸術派・プロレタリア文学論争のまとめ~
まとめの構成 右に示す通り、『現代日本文学論争史』「新興芸術派・プロレタリア文学論争」(本稿でのページ数についての記載はこの本に準ずる)の章に収録される文章をまとめる。 それぞれのまとめの後ろに、文章の作者を簡単に紹介する。 また、重要な専有名詞がある場合には、「註:」の形でその後ろに注釈を加え、質問点がある場合、「問題提起:」の形で後ろにこれをする。 文献情報 雅川 滉(新興芸術派)「藝術派への攻撃に逆襲する」(一二二〜一二八頁、初出:昭和五年=一九三〇年六月 新潮) 章立て 各章のまとめ 第一章のまとめ 第一章では新芸術が受けた「攻撃」(一二二頁)を軍事的な修辞で描写した。 第二章のまとめ 第二章は「藝術上の真實」の題で、マルクス主義文学者からの批判を反駁した。 まずは日本における「感傷主義」(一二二頁)の形成に至る歴史的背景を顧みた。 そして、マルクス主義は果たして感傷主義の対蹠・「理智主義」「科學主義」(一二三頁)を代表したのかと質疑した。 マルクス主義の強かった影響力を承認しつつ、「この社會運動に對する熱愛は、いつか藝術をもこの手段へと採用するに至つた。所謂藝術の政治的隸屬である。」(一二三頁)と言った。 マルクス主義の文学における反抗を、「社會運動の持つ壓迫階級への反抗といふ意味」(一二三頁)に帰結し、政治からの芸術の独立の意味で「文學としての反抗ではない」と論じた。 また、主義と関係なく、「藝術作品に敬服を惜しまないといふことが我々の最初にして且つ最後の重點である。」(一二四頁)と述べた。 「文學形態が、言語によつて表現せらるゝからで[⋯⋯]この言語は、同時に思想の傳達手段でもある。」(一二四頁)と述べた。しかし、「思想と藝術とは壁一重だ。記録と藝術とも壁一重だ。」と言った。他の芸術形式・絵画や音楽の例を挙げ、「繪畫[⋯⋯]その傳達手段を、色彩の上に」「音樂[⋯⋯]その傳達手段は音の上」と述べた。「藝術は事實の模寫でない。[⋯⋯]それ自體の中で真實である。[⋯⋯]事實上の真實とは別個の存在なのである。前者はたゞ存在する。後者は、藝術なる形態を通じて、そこに初めて存在を全(まっと)うするのだ。」(同上)と述べた。したがって、マルクス主義の文学は「飽くまで社會的狀勢の上であり、且つその記述は思想であり、記録である。」(一二五頁)と論じた。 文学作品における思想の重視は、古代において文化状態の未分化と関連すると論じた。が、作者の時代は、文化状態の「分化の進展期」(一二五頁)である。よって、マルクス主義者からの批判を「藝術に於いて取出された思想ばかりの重視を意味するもの」とした。さらに、マルクス主義者を本まとめの一番目の文章「藝術派宣言」(雅川 滉)で書いた芸術家至上主義とし、「人間的藝術家として自己完成を遂げたとみる藝術家至上主義」(一二六頁)と帰結し、新芸術派の方を自ら「藝術至上主義」(同上)とした。 第三章のまとめ 第三章で、「新しい角度」(題名、一二六頁)の必要性を論証した。「事實上、或は社會上の真實」が何度も繰り返されることができ、「藝術上の真實は」、「同じ」ということを「極力排斥するものだ」(一二六頁)と論じた。また、「藝術上の真實は、その作家の絶えざる創作的過程の中にある」(同上)と主張した。「新しい角度とは、この創作的過程に於ける努力の中に見出される新しい方法への省察である」(一二七頁)ことを明らかにした。 作者について ⇒成瀬 正勝(なるせ まさかつ) 一九〇六-一九七三 昭和時代の評論家、近代文学研究者。 明治三九年二月二五日生まれ。第九・第十次「新思潮」、「文芸都市」などの同人。昭和五年新興芸術派倶楽部に参加、「芸術派宣言」を発表した。日大、東洋大、東大、成蹊大の教授をつとめた。昭和四八年一一月一七日死去。六七歳。東京出身。東京帝大卒。筆名は雅川滉。著作に「明治文学管見」「森鴎外覚書」。 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』より 付記 日本語の資料を引用する時、舊字體の字をそのままにする。下線や読み仮名(よみがな)・[……](省略)は筆者による。
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久野豊彦「新藝術派は何故に擡頭したか!」について~新興芸術派・プロレタリア文学論争のまとめ~
まとめの構成 右に示す通り、『現代日本文学論争史』「新興芸術派・プロレタリア文学論争」(本稿でのページ数についての記載はこの本に準ずる)の章に収録される文章をまとめる。 それぞれのまとめの後ろに、文章の作者を簡単に紹介する。 また、重要な専有名詞がある場合には、「註:」の形でその後ろに注釈を加え、質問点がある場合、「問題提起:」の形で後ろにこれをする。 文献情報 久野 豊彦(新興芸術派)「新藝術派は何故に擡頭したか!」(一一三〜一二一頁、初出:昭和五年=一九三〇年五月 新潮) 章立て 一 新藝術派は、まづマルクス派の誤謬から出發する(一一三頁〜) 二 藝術に對する古典的理想を果敢に訂正せよ(一一五頁〜) 三 藝術は、現實を新鮮に意識させる技術なのだ(一一八頁〜) 各章のまとめ 第一章のまとめ 第一章では、「マルクス主義文學」者が「非現代的なものになりつゝあること」、「文學の取材範圍が[⋯⋯]狹隘なこと」、「表現形式が[⋯⋯]陳腐なこと」(一一三頁)と、三つの項目にマルクス主義文学論を批判した。 マルクス主義文学者の非現代さについては、マルクス主義そのものの非現代さによって成立するわけである。 まず、作者は自分の時代が既に「信用概念」のある経済社会になったので、「信用經濟學」の時代になったが、マルクス経済学派「産業革命直後の經濟社會を焦點として批判すること」(一一三頁)と論じ、新たな時代の「經濟社會を説明することは、最早不可能である」(同上)と論じた。 そして、作者は、マルクス主義における「辨證法的進展」が「藝術の限界内に於ても、旣成藝術派派この辨證法的進展云々のために、甚だしく排撃されてきた」(一一三頁)と述べた。 最後に、マルクス主義の資本家に対する攻撃を時代遅れとした。「信用主義社會」において「少數の金融家の支配下にある信用によつて統制されてゐるからである」(一一四頁)と言った。 続いてはマルクス主義文學の「取材範圍の狹隘なこと」についてである。作者は、マルクス主義文學における「勞働者對資本家の階級的對立」(一一四頁)は「信用主義社會の現代」の「現實」に遅れたと論じた。よって、マルクス主義文学者からの「現實を逃避してゐる」という非難を認めなく、マルクス主義文学者の方が「信用主義社會」の「現實」を逃避し、「新藝術派の擡頭も、必然の過程」(同上)であると論じた。 「次ぎに、マルクス派の取材範圍の本質的な狹隘さは、勞働問題の解決によつて、現代の畸形的社會經濟生活の疾患が解決されるごとく思惟してゐる點にある。」(一一四頁)と次の段落の劈頭に言った。作者は他の学説を引用して、マルクス主義の労働問題に対する見方が「誤解」と判断し、よってマルクス主義文学の労働問題に関する取材が狭いと論じた。 「表現形式の陳腐さにいたつては、[⋯⋯]徒らなる記述とマルキシズムの訓話註釋と不出來な寫真術とが」(一一五頁)あると述べた。作者は、「文學の特殊機能とは、現實を讀者へ新鮮に意識させる技術にある」と論じ、マルクス主義文学の表現形式が「文學的敗北」と言った。 第二章のまとめ 第二章で、文学に社会改造問題を求めるのは「非現代的」(一一六頁)であると論じた。作者は、古来よくあった文学にそういった「思想的任務」=「思想的重税」(一一五頁)を課すのは「古典的理想」(一一五頁)と述べた。マルクス主義文学者のやり方を前述の古典的理想と同一視した。 また力学理論を参照した他の経済学の学説を引用し、金融機関を社会問題の解決の鍵にし、マルクス經濟學に依據する社會改造方策を直接反駁した。(一一六〜一一七頁) 以上のような「古典的理想」(一一八頁)を清算する任務を新芸術派に与えた。 第三章のまとめ 第三章では「藝術は、現實を新鮮に意識させる技術なのだ」(一一八頁)と論じた。金銀製造における「實価値」=「内容價値」(一一九頁)すなわち金銀そのものと、「美的價値」=「形式價値」(同上)すなわち金銀製品に施した「美術的技術」を例とし、後者のある金銀製品の価値の種類が豊かになったように、「現實の藝術は、實體價值と官能價值との超個的調和」(同上)があると論じ、「文學技術は、素材のその官能に對する自らの關係を感知すること」(同上)と述べた。しこうして「作品行動から出發してゐるだけ」(一二〇頁)の新芸術派の新たな理論として、「新藝術派の文學技術は、尖銳に、藝術素材を點檢して、その内部にある藝術としての官能[⋯⋯]幾多の可能性中より抽出し」、「役立たざる」「他の官能を排斥する」(同上)と述べた。新芸術派の文学は「内容と形式との統一體」(一二〇頁)と述べた。 作者について 一八九六-一九七一 昭和時代の小説家、経済学者。 明治二九年九月一二日生まれ。昭和五年「ボール紙の皇帝万歳」などで、新興芸術派の旗手と目(もく)される。評論「新芸術とダグラスイズム」では反マルクス主義にたって社会批判を展開、新社会派ともよばれた。晩年は名古屋商大で経済学を講じた。昭和四六年一月二六日死去。七四歳。愛知県出身。慶大卒。 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』より 付記 日本語の資料を引用する時、舊字體の字をそのままにする。下線や読み仮名(よみがな)・[……](省略)は筆者による。
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間宮茂輔「新興藝術派を嘲笑する」について~新興芸術派・プロレタリア文学論争のまとめ~
まとめの構成 右に示す通り、『現代日本文学論争史』「新興芸術派・プロレタリア文学論争」(本稿でのページ数についての記載はこの本に準ずる)の章に収録される文章をまとめる。 それぞれのまとめの後ろに、文章の作者を簡単に紹介する。 また、重要な専有名詞がある場合には、「註:」の形でその後ろに注釈を加え、質問点がある場合、「問題提起:」の形で後ろにこれをする。 文献情報 間宮 茂輔(プロレタリア文学)「新興藝術派を嘲笑する」(一〇九〜一一二頁、初出:昭和五年=一九三〇年四月 三田文學) 註:『三田文學』誌について。 文芸雑誌。一九一〇年(明治四三)慶応義塾大学は不振の文科刷新のため、永井荷風(かふう)を教授に迎え、その五月、森鴎外、上田敏(びん)を顧問に、荷風を主幹として『三田文学』を創刊した。荷風主幹時代は一五年(大正四)までであるが、この間、鴎外(『花子』『沈黙の塔』『妄想』)、敏、荷風(『紅茶の後』『新橋(しんきょう)夜話』『日和下駄(ひよりげた)』)のほか、馬場孤蝶(こちょう)、泉鏡花(『三味線堀』)、木下杢太郎(もくたろう)、北原白秋(はくしゅう)、吉井勇、小山内薫(おさないかおる)、谷崎潤一郎、与謝野鉄幹(よさのてっかん)・晶子(あきこ)らが寄稿。耽美(たんび)的色彩の濃厚な反自然主義的傾向を示し、久保田万太郎、水上滝太郎(みなかみたきたろう)らの三田派の作家も誕生した。ついで沢木梢(こずえ)が主幹となり、南部修太郎、小島政二郎、西脇順三郎、勝本清一郎らを送り出したが、二五年三月終刊。翌年四月大学の直接経営を離れ、水上を精神的主幹として復刊。杉山平助、石坂洋次郎(『若い人』)、矢崎弾(だん)、原民喜(たみき)、北原武夫、柴田錬三郎、丸岡明らが引き続いて登場した。四四年(昭和一九)一一月休刊。第二次世界大戦後は四六年(昭和二一)一月丸岡明を中心として復刊。 『日本大百科全書(ニッポニカ)』より一部抜粋 章立て 1(一〇九頁) 2(一一〇頁〜) 3(一一一頁〜) 4(一一二頁) 各章のまとめ 第一章で作者は新興芸術派を「モダニズム作家の集合で」、「左・プロレタリア派、右・既成文藝派との間に在」るのを「同情的に認める」(一〇九頁)と言った。「新興藝術派」を「商業出版資本主義」の(新潮社に利用して取り上げられた)ものとした。 第二章では、新潮社で新興芸術派とされた岡田三郎・嘉村礒太・川端康成・淺原六朗の四人を批判した。「川端康成氏が、新感覺主義から新興藝術派に移つた行程」(一一〇頁)に非難した。「自然主義系統のリアリズム」を新興芸術派のものとした。岡田三郎を「自然主義的リアリズム⋯⋯と云つても、此の作家のリアリズムは曖昧である」(同上)と批評した。浅原六朗を「誠實の無い作家」(一一一頁)と批判した。嘉村礒太の「ジアナリズムの前に弱々しく降伏した」(同上)ことを非難した。 第三章で、作者は「久豊、楢崎、中村、等々⋯⋯の一群」の作家を「モダニテイを持つて居ると考へられる」(一一一頁)。が、彼らは「數に於て量に於て」(同上)足らないと言った。新興芸術と言われるものを新潮社に利用され、「新潮社の資力——廣告に依つて」売られたものとし、いつか捨てられると論じた。 第四章は、「ブルジョアの城壁 インテリの苦しい立場 プロレタリア層の悲慘」(一一二頁)の「三つの對立的關係」を捉えられなければならないと論じ、「モダニテイに對する理解」(同上)がなければその作品が評価にならないと論じた。 作者について 小説家。東京生まれ。本名は真言(まこと)。慶応義塾大学文科予科中退後、鉱山(こうざん)、灯台(とうだい)などで働き、その体験が後の作品に生かされる。『不同調』に参加するが、変貌(へんぼう)する漁村を描いた『朽ちゆく望楼』(一九二九)を発表し、プロレタリア文学運動に近づき、『文芸戦線』を経て、ナップに加わる。入獄を経験したのち、『人民文庫』に参加し、『あらがね』(一九三七~三八)を連載。戦後は民主主義文学運動や平和運動の推進に力を尽くした。[鳥居明久] 『日本大百科全書(ニッポニカ)』より 一八九九-一九七五 大正-昭和時代の小説家。 明治三二年二月二〇日生まれ。「不同調」の同人をへて、「文芸戦線」、ナップにくわわる。昭和八年投獄され、一〇年転向して出獄。一二年から「人民文庫」に長編「あらがね」を連載。戦後は新日本文学会、日本民主主義文学同盟に所属。昭和五〇年一月一二日死去。七五歳。東京出身。慶応義塾中退。本名は真言(まこと)。 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』より 註:転向(てんこう)について。 政治的、思想的立場を変えること。特に、共産主義者・社会主義者が、弾圧によってその思想を放棄すること。 小学館『デジタル大辞泉』より 註:転向文学について。 共産主義・社会主義に拠(よ)っていた作家が、権力の介入によってその信条を放棄したり、あるいは圧迫のない立場に移行したりする、いわゆる転向を主題に据えた文学。また広くそういう体験をもった作家によって書かれた作品も転向文学といわれることがある。 一九三三年(昭和八)六月、当時の共産党指導者佐野学(まなぶ)、鍋山貞親(なべやまさだちか)(一九〇一―七九)が獄中から「共同被告同志に告ぐる書」いわゆる転向声明を公表、実質的に共産主義放棄を宣したのを契機に、未決囚・既決囚を含む治安維持法被告の大多数はこれに追随して転向の意思を表明し、三四年春ごろから相次いで保釈出獄の身となった。この転向体験をもった作家によって書かれた文学、また直接転向体験そのものを題材とした作品は当時のジャーナリズムにも積極的に迎えられて、いわゆる文芸復興なるものと表裏の関係で昭和一〇年前後の文運をにぎわしたのである。それらのうち三四年に発表された村山知義(ともよし)『白夜(びゃくや)』、立野信之(たてののぶゆき)『友情』、窪川鶴次郎(くぼかわつるじろう)『風雲』、徳永直(すなお)『冬枯れ』などは、官憲の抑圧によって余儀なくされた転向を良心の苦悩として私(わたくし)小説風に告白した作品であり、その年から翌年以降にわたって発表された島木健作の『癩(らい)』から『再建』に至る作品(島木は後に『生活の探求』で転向を完成させる)、中野重治(しげはる)の『第一章』に始まって『村の家』ほかを含む連作などは、一歩後退したところからもなお再起への模索を潜ませた作品であって、ともに初期の転向文学の位相を端的に示すものであった。また、三五~三六年(昭和一〇~一一)に発表された高見順の『故旧忘れ得べき』などに代表される昭和一〇年代のデカダンス文学も転向文学の一位相とみることができ、そのほか、武田麟太郎(りんたろう)における庶民的日常性への埋没、本庄陸男(ほんじょうむつお)における歴史的次元への遡及(そきゅう)、亀井勝一郎における宗教や古典の世界への自己再生等々の場合、さらに戦争下ファシズムに傾斜した転向作家の場合などをも考え合わせると、強制された転向から、質を転じた自主的転向に至るまでの諸段階を反映した転向文学の諸相は、昭和10年代文学状況の全般にわたって深くかかわっていたということができる。第二次世界大戦後は、「近代文学」同人たちによる戦争責任の追及の過程で転向問題が再提起された。[高橋春雄] 『日本大百科全書(ニッポニカ)』より 付記 日本語の資料を引用する時、舊字體の字をそのままにする。下線や読み仮名(よみがな)・[……](省略)は筆者による。
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夕日燦して焼くがごとし
夕(ゆう)日(ひ) 燦(さん)して焼くがごとし 群鹿(しかども) ゆるゆると林中(もり)を歩くのみ 🦌 奈良・春日大社の林中に詠う時に若(わか)宮(みや)正(しょう)遷(せん)宮(ぐう)を行いて未幾(いまだいくばくならず) 按、三野混沌の句を借用して、聊か此の景に即す「天日燦して焼くがごとし、いでて働かざる可からず」と云うなり「天日燦如燒、夙興靡餘勞」と之を拙訳す
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奈良即景
前書き 奈良に遊びて、景に即して数句を作る。君の一粲を博す。 星注ぐ 荒星や そゝぐが如き 車ども 「恍然星流如注」と漢訳す 時に一片の神鴉の声を聴取し、遥かに道路を眺めて疑うらくは是れ星河の天より落つるかと 万緑林中紅一樹 紅(こう)一(いち)樹(じゅ) 万(ばん)緑(りょく)の中 吾(わ)が待ちし 「萬綠叢中、獨木知秋」と漢訳す 「吾が待ちし」の句、『万葉集』より出づる 心動く ふと悟る 仁(じん)者(じゃ)が心 動くかと 「非風非幡」の典故を用いる「是れ風動くにあらず、是れ幡動くにあらず、仁者が心動くなり」と 灯ともし頃 灯火と たなびきわたる 霞みかな 三条通りにて 「華燈初上、紅霞遠映」と漢訳す Also on / También en / Aussi sur / Cē̤-sē̤ iâ ô / 這所也有 / 亦可見於 / こちらも: Twitter Mastodon
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雅川滉「藝術派宣言」について~新興芸術派・プロレタリア文学論争のまとめ~
まとめの構成 右に示す通り、『現代日本文学論争史』「新興芸術派・プロレタリア文学論争」(本稿でのページ数についての記載はこの本に準ずる)の章に収録される文章をまとめる。 それぞれのまとめの後ろに、文章の作者を簡単に紹介する。 また、重要な専有名詞がある場合には、「註:」の形でその後ろに注釈を加え、質問点がある場合、「問題提起:」の形で後ろにこれをする。 文献情報 雅川 滉(新興芸術派)「藝術派宣言——新藝術派は如何にして起り、何を爲すかの問題——」(一〇一〜一〇九頁、初出:昭和五年=一九三〇年四月 新潮) 註:『新潮』誌について。 月刊文芸雑誌。一九〇四年(明治三七)五月創刊。新潮社発行。[……]昭和に入ると、プロレタリア文学盛行のころには新感覚派、新興芸術派に誌面を割くことも多かったが、編集を担当した楢崎勤(ならさきつとむ)(一九〇一―七八)の「文壇の公器」という信念のもとに、党派に偏らず、川端康成(やすなり)・横光利一(よこみつりいち)・嘉村礒多(かむらいそた)・小林秀雄・堀辰雄(たつお)・宮嶋資夫(みやじますけお)・太宰治・高見順らの作品を載せている。太平洋戦争末期の一九四五年三月休刊、終戦後の同年一一月斎藤十一(じゅういち)(一九一四―二〇〇〇)編集長、河盛好蔵(かわもりよしぞう)編集顧問で復刊。 『日本大百科全書(ニッポニカ)』より一部抜粋 章立て 一 先づ何故に宣言が發せられるに就いて(一〇一頁) 二 さて第一にマルクス主義文學論の誤謬から(一〇一頁〜) A それは藝術の角度からでない B 現實の切實と反映の切實とは違ふ(一〇二頁〜) C 藝術的價値の可變性を、マルクス主義は陋劣にも強權主義によつて歪曲した (一〇三頁〜) 三 第二にマルクス主義作品に對する不滿について(一〇四頁〜) A しかし今日までの功績を認めるのに我々は吝(やぶさ)かでない B だがマルクス主義の作品は固定しだした、こゝに不滿が起る(一〇五頁) 四 そこで新藝術派は宣言する(一〇五頁〜) A 「藝術に對する正しき認識」——新藝術の理論 B それの進歩への抗爭——新藝術派の作品に關する檢討(一〇七頁〜) 五 新藝術派の實際(一〇九頁) 文章の主旨 この文章は作者によって、「藝術派の向動性を、虐殺されんとする藝術の爲に、闡明(せんめい)するもの」(第一章、一〇一頁)である。 問題提起:向動性とは? 原文には、「マルクス、エンゲルスが、虐(しいた)げられた萬國の勞働者の爲に、「共產黨宣言」を發表したその激しい意欲とお等(ひと)しく、藝術派は藝術に對する正しき認識と、それが進歩への抗爭の爲に、彼等の行動を開始したのである。「藝術派宣言」とはまさしくこの間の藝術派の向動性を、虐殺されんとする藝術の爲に、闡明するものであらねばならない。」(一〇一頁)と書いてある。 もしかして能動性のこと。この文章には、作者がマルクス主義的言葉遣いを了解した上で使ってプロレタリア文学者とも対話しようとする姿勢が見られるので、ここの向動性も能動性のことだろうかと思われる。 また、原文には「敏感なる識眼が何に向かつて動いてゐるかゞ十分問題になるだ」(一〇三頁)と書いてあり、向動性はもしかして何に向かって動き出す傾向性を意味する造語だろうかとも思われる。 各章のまとめ 第一章のまとめ 第一章は、文章の趣旨を明らかにする。 「文學が藝術である限り藝術派といふ名前は少し變である」(一〇一頁)一方、このような認識を持っている人々が少なくなっ言う表現が「何か新鮮な響き出してきたのだ」(同上)と述べた。芸術は「自慰的な享樂」「逃避的な遊戲」(一〇一頁)とされてきたといった。 そして、マルクス主義者の観点では、「文學とは、他の文化現象と同じく經濟機構の上部構造である限り、直接に社會の反映でなければならない」(一〇一頁)という。「階級闘爭の進行は、唯物辨證法の指示する所に従つて、ブルジョアーの没落とプロレタリアートの勝利を豫言する」(同上)といったように、文学も同じだとされた。よって、「在來の藝術」(同上)は反動なものとされた。 そのような認識に対する「抗爭」(同上)として、芸術派は「行動を開始したのである。」(同上) 第二章のまとめ 第二章は、「マルクス主義文學論」(題名より、一〇一頁)を反駁(はんばく)した。「藝術の角度からでない」(同上)、「現實の切實と反映の切實とは違ふ」(一〇二頁)、「藝術的價値の可變性を、マルクス主義は[⋯⋯]歪曲した」(一〇三頁)と、三つの方面から批判した。 まずは芸術の角度からの批判である。作者は直接マルクス主義理論を批判せずに、マルクス主義文学論を「社會學的解釋」(一〇二頁)とし、「階級闘爭説に結合」(同上)したものとした。しかし、「我々」のある作品を楽しむのは、その作者の政治的見解や革命の経歴と関係なく、「藝術作品の卓越の上からだ」(同上)と論じた。それは芸術の角度である。マルクス主義文学者は「自身に忠實なる所以で」(同上)、「闘爭的文學の歴史的必然性」(同上)から文学を論じるが、「藝術に對する忠實或は藝術の必然性はまた別の角度からである」(同上)と作者は論じた。 続いては「現實の切實と反映の切實と」(題名より、一〇二頁)の違いから論を始めた。「時代に對する敏感であることは藝術の第一義的要件である」(一〇二頁)ので、芸術派が「階級闘爭の嵐」を無視するわけではないと主張し、マルクス主義文学が「社會の反映だといふことを旣に我々の心臓にかけて承認してゐるのだ」(同上)と述べた。それを前提とし、「實を云へばこの敏感なる識眼が何かに向かつて働いてゐるか」(一〇三頁)と定義し、作者は文学作品の切実さを「現實の切實」と「反映の切實」と二つに分けて、「現實の切實感」を「一般社會人の敏感」とし、「反映の切實」を「藝術家の敏感」、「藝術家の眺める對象乃至角度」とした。「反映の切實を、現實の切實に切り換へ」ると、「社會の勝利である。然し文學の没落だ。」(同上)と断言し、「文學作品は、必ずしも現實にその内容を充當する蓄電池である必要はない」と言った。 最後は「讀者の方向から所謂藝術的價値について」(一〇三頁)である。題目には「藝術的價値の可變性」という表現があるが、「價値の可變性」は、マルクス主義理論とされ、「藝術品に對する藝術的價値が永久不變のものでなく、常に可變性を帯びてゐるといふこと」と述べた。作者はそれについて「事實」と言い、『万葉集』を例とし、「必ずしも萬葉時代人が感じ得た波長と等(ひと)しいとは考へられない」(同上)と論じた。が、芸術的価値及びその可変性は、判断基準が政治的覇権を受けていると指摘した。マルキス主義の視点から見れば、いわゆる価値は「プロレタリア解放に關する政治的價値」(一〇四頁)である。このような価値観で芸術作品の価値を評定するのは、「政治主義の勝利」であり、「藝術は虐殺される」(同上)と言った。 問題提起:「承認」(一〇二頁)とは? 原文で「我々はかの「卓見」文學が社會の反映だといふことを旣に我々の心臓にかけて承認してゐるのだ。」と書いてある。ここの「承認」は、納得と違うのだろうかと思われる。 『精選版 日本国語大辞典』「承認」の解説には、「正当であると認めること。一定の事実を認めること。肯定の意思を表示すること。」と書いてある。 また、間宮「新興藝術派を嘲笑する」にも「承認」という表現が出た。が、条件付きの承認である。前述の新興芸術派の定義に対し、「[⋯⋯]ならば、一應承認することは出來る。一應承認とは、是認することでは無く同情的に認める事である事勿論である。」(一〇九頁)と書いてある。雅川はマルクス主義理論を賛成するわけでもないので、用いた「承認」も「一應承認」で、「同情的に認める事」だろうかと思われる。 第三章のまとめ したがって第三章では、「「それが進歩への抗爭」に對蹠する[……]マルクス主義文學作品に感ずる不滿」(一〇四頁)を述べた。 その前に、マルクス主義文学の「功績」(一〇四頁)を評価した。新興芸術派の「鋭く對蹠」する「舊き藝術派」は「個人主義的傾向によつて」、その作品が安易な「身邉雜記」に「固定」し、「心境小説論」と名乗り、「ともすれば藝術至上の信仰が藝術家至上の迷信に置換へられてゐた」ので「許された」(一〇五頁)と言った。そして、「マルクス主義の作品が素材的な意味での開拓でしかなく」、「少くも新しい空氣を輸送し」、「一撃によつて舊藝術派の唯心主義や感傷主義がひとたまりもなく抛り出された」(同上)と論じた。 が、マルクス主義の作品は「固定」(一〇四頁)した旧芸術派の作品に衝撃を与えて後、その自身もまた「固定」(一〇五頁)した。「現實の切實を、反映の切實と切換へた限りでは、政治主義を藝術主義と置換へた限りでは、その文學は停頓する」と作者は主張した。その原因として、「一個の政治上の主義は、完徹に向かつて[⋯⋯]常に勇往邁進する不變の志操であるのに反して、文學はまた常に、新しき角度に向つて移動し進展し行く可變の觸手であるからなのだ。」(同上)「幾度か同じ趣意を繰返すべき」政談演説の例を挙げ、「二個の同一の作品を創造すべきでないことは、藝術の藝術たる特質なのだ」(同上)と論じた。 第四章のまとめ 第四章は本論になる。作者は新芸術の理論を「藝術に對する正しき認識」(一〇五頁)とした。 「知識階級は其自體階級ではないと云はれるかも知れない。如何にもその通り。さう云ふ意味に於いて藝術に階級を認めないのが我々の理論なのである。」(一〇六頁)向坂逸郎の「藝術は餘剩價値の上に築き上げられた」という意見に反対し、「藝術の價値の高さに、彼の知識の深さは比例してゐる」と主張した。また、知識階級という概念に巡って、「社會の歴史は[⋯⋯]帝王、貴族、僧侶、ブルジョアジーと次第に知識階級を増加しつゝ、今やプロレタリアートをしても、この知識階級への参加を促進せしめようとしてゐるのである。」(同上) 「藝術派の作品」(一〇七頁)に対しての非難を答えた。 「藝術派の作品は自己陶醉乃至逃避であると」(同上)いう「マルクス主義者諸君の指摘でしかない」(同上)批判に対して、「停滞した角度にのみ固着して飽かれることに平氣で」、「乃至文學の世界から一般社會人へと逃避した」ということこそ自己陶酔・逃避というものである。マルクス主義評論家につけられた「反動といふ名札」(同上)を反対し、芸術を「進歩へ」(同上)向っているものとし、「我々の進歩は、藝術に結付く限りでは、直接社會の進歩的な傾向に參與しないからである」と論じた。 また、「進歩」「反動」という言い方を否定した。「藝術派の思想は必ずしもマルクス主義的ではない」(一〇八頁)ので、マルクス主義者に「反動」と言われたと反発した。また、マルクス主義者にとって「進歩」なものは、「他の社會主義の立場から見るときは、進歩の文字は過激と置換られるかも知れない」(同上)と言った。龍胆寺雄の言った「藝術派の藝術主張は、何よりも藝術を狹小な政治的干渉から解放しようとして發現した。從つてプロレタリア的政治方策の干渉をも拒否する様に、ブルジョア政治方策の干涉をも拒否する」(近代生活三月號一四頁)を引用し強調した。 「藝術派は技巧偏重主義だと」いう非難に対し、作者は「現實の切實を計算に入れ」ず、マルクス主義の価値観に支配させられず、「所謂政治的價値を殆ど含むことのない、反映の切實に直面する」(同上)からだとした。 […]